市場神学論争@インサイダー取引

「市場」にあたかも主体が存在するかのような言を弄し、「市場」の名の元に不正を正当化しようという市場神学が存在する。
例えば、池田信夫blog: インサイダー取引はなぜ犯罪なのか(その2)&(その1)では、盛んに「市場」があたかも神であるかのように奉られている。
行政が市場に強く介入することによって市場が萎縮する社会的コストも大きい(その1)

荒っぽく言えば、「市場が萎縮する」から規制は拙いというわけだ。しかし、萎縮して何が拙いのか? 市場はインサイダー規制があろうがなかろうが常住坐臥萎縮、膨張を繰り返している。拙いことなんて何もない。
効率を損ねるなんて、はっきり言えば、「市場」をダシにして、つまり公的な高い視点からの目を装って、実は他者をダシ抜きたいだけの話だ。オタク学者が「本来の株価」などという有りもしない脳内株価を持ち出して「効率的市場」を唱えているだけだ。

インサイダー情報にもとづいて株式を空売りできれば、内部告発者が真実を語るインセンティヴが生じる――とミルトン・フリードマンは論じている。

さすが、超一流の経済学者は屁理屈も超一流だ。でも、内部告発増えたら、「市場が萎縮」しない? 内部告発の質も格段に低下すると思われ。

商品市場にも不動産市場にも、インサイダー規制はない。(以下その2)

なければ作ればいいんですよ。商品市場や不動産市場は遅れているだけ。ピリオド。大体、証券市場の規制だってまだまだ発展途上でまだ洗練されていないだけだろう。物事は前向きに考えんとお。

インサイダー取引が禁止されているのは、多くの人が素朴に信じているように、それが「詐欺」だからではない。

いんや、素朴に詐欺の一種だ。というか、まだ規制が発展途上故にまだ市民権を得ていなかった詐欺とでも言おうか。少数の人がきっかけを存在理由と勘違いしているだけ。

要するにインサイダー規制は、個人投資家を資本市場に参加させる「集客」の目的で設けられた規制なのである。

ああ、またこれか。「市場」を神に祭り上げる論法。契機と目的が混同され屁理屈が一人歩きする契機の典型だ。よくまあ、こんな本末転倒の典型を恥ずかしげも無く書き殴れるもんだ。よく言われる「市場の承認」とか、「市場が拒否」という表現が流通するうちにいつのまにか市場が神か何かのように勘違いする人々が急増したということか。
市場参加者は誰も市場など崇めていない。ただ自分が儲けたいだけなのだ。これは個人も機関も関係ない。
こんな欲望のエネルギーの塊に規制がなかったらそもそも市場が成り立たない⇒儲ける機会を逸する⇒可能な限り公平にしよう――というのが時代の流れだと思うのだけれど。
規制と自由は対立概念じゃなくて、実は規制が全くなくなれば自由も消滅するんだよね。そして「自由」というのも規制の一形態なんだけどなあ。鳥が「自由」に空飛べるのは重力だの流体力学の規制を受けて初めて可能となる。鳥をより自由に飛ばせるために重力も気流もなくそうとした瞬間に鳥はもちろん、世界が消滅するわけだ。
磯崎さんがまたオフサイドなんて言葉遊びしている。個人投資家を観客に例えてどうするんだよ? この時点で個人投資家はカモですと宣言しているようなものだ。こんな浮ついたこと書いているようじゃ、10年早いよだ。へえぇ〜ならClick⇒人気blogランキングにほんブログ村 経済ブログへ