泥炭は化石燃料かバイオ燃料か?

晴耕雨読:「インドネシア 泥炭地破壊」 泥炭の分解や火災によって排出される大量の二酸化炭素が、インドネシアを世界第3位の温室効果ガス排出国に押し上げている。
この見解には賛成できかねるものがある。なぜなら温室効果ガスとしての二酸化炭素は、二種類に分ける必要があるからだ。
以前書いた「炭素流通量は確実に増えている」でも書いたが、問題は「市場(地表)に出回っているカネ(炭素)は確実に毎年増えている」ということだ。
分かりやすく例えれば、植物が枯れ、動物が死んで分解されて二酸化炭素を大気中に排出されても、温暖化ガスとしての排出量にカウントすべきでない。出所が、市場(地表)に流通している炭素から取り込んでいるので、行って来いの関係にあるから市場(地表)の炭素流通量に影響しないのだ。
一方、人為的に地下から掘り出される石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料は、市場(地表)に新たに出回る炭素貨幣であり、炭素流通量は確実に増大し、温暖化に拍車をかける。化石燃料の炭素も元々(少なくともほとんどは)生物起源だが、人為的に市場(地表)に出回らせているということで、問題なく温暖化ガスとて定義付けられる。
問題は、このような森林が蓄積した泥炭状態にある炭素蓄積だ。困ったことに、泥炭の炭素も生物起源だが、定義的には、こういう泥炭はちょうど化石燃料と再生可能バイオ燃料の中間に位置している。
インドネシアの泥炭だけでなく、イギリスなどで用いられる泥炭の一種、草炭もそうだろう。更にシベリアの永久凍土や深海底に蓄積されているメタンハイドレート化石燃料に成り切れない化石未満燃料と言えるだろう。
そして、もう一つの重要なポイントは「人為的」をどう定義付けるかだ。枯葉の一部は放置すればいずれ腐葉土となり、更に時を経て泥炭となり、更に時を経て石炭になる。だからといって、枯葉を集めて焚き火をするのは、人為的に炭素流通量を増やすとするのは無理がある。
そうすると、これらの定義付けはきちんと国際法として確立しておかないと困ったことになる。まだまだ未成熟だが、京都議定書の取り決めにしても、将来的に確立されるかもしれない新しい温暖化防止条約にしても、「人為的温暖化二酸化炭素」とは何かを定義付けしておかないと、いつまでたっても収拾がつかない。
インドネシアの泥炭の場合、森林開発に伴うもので、地上の植生を伐採することに伴う二酸化炭素排出は、たとえ「人為的」な伐採であっても、枯葉で焚き火することと変わらないとして「温暖化ガス排出量」にカウントすべきではないだろう。地下にある泥炭も、燃料にする目的で分解されたのでない以上、同様に「温暖化ガス排出量」にカウントすべきではないだろう。一方、イギリスの草炭は明らかに燃料目的で「人為的」に燃やされているので「温暖化ガス排出量」にカウントすべきだろう。昨今話題の深海底のメタンハイドレートも、燃料目的で「人為的」に取り出した場合は「温暖化ガス排出量」にカウントしなければならない。
なぜ「燃料目的」かと言えば、化石燃料にしても化石未満燃料にしても、「燃料目的」(別にプラスチック目的でもいいのだが)に使用することによって経済的利益をもたらすという意義付けができるからだ。(*もちろん、明々白々のバイオ燃料でも、燃料として使えば、経済的利益をもたらすが、炭素流通量に影響しないので「温暖化ガス排出量」にカウントしない)
この経済的利益になるかどうかが重要な要素で、このことが貨幣経済と炭素流通量をリンク(貨幣・炭素為替取引)させるヒントになる。炭素本位制への第一歩だ。
へえぇ〜ならClick⇒人気blogランキングにほんブログ村 経済ブログへ