正義の味方を批判する正義の味方

H-Yamaguchi.net:暴論:「正義の味方」こそ規制すべきなのではないか こういう「ひねくれ系」見方をすると、必ず陥るのが自家撞着だから困ったものだ。
ある特定の子どもが「正義の味方」に、別の特定の子どもが「悪者」となるといった「役割の固定」があったとしたら、それは暴力以外の何だというのか。そういうのを「いじめ」と呼ぶのではないのか。
もしそうなら、問題とすべきは暴力表現よりむしろ、「正義の味方」表現なのではないか、ということになる。顔が食品でできているあのヒーローも、5人で悪者をよってたかって痛めつけるあの戦隊ヒーロー諸氏も、子どもにとって有害な存在となるのではないか。「悪者」とされた子どもへの暴力やいじめに対する心理的な免罪符を与えてしまっているのではないか、と。

これが真実だとすると、更にややこしいことになる。「悪者」が「正義」となり、「正義」が害悪となってしまい、「悪」が「正義」に反転してしまう。とすると、「正義の味方」を批判する者が「正義の味方」月光仮面をかぶることになり、やがてこの正統性を得た「裏正義の味方」が権威として「正義の味方」を攻撃する免罪符を与えられることになる。
似たようなこととして宮台真司さんがかつてよく言っていた「○○すべきだ」という「べき論」はすべきでないという「べき論」がある。何かを発言する場合、「べき論」を否定しても、それもまた「べき論はやるべきでないというべき論」になってしまう。
「正義の味方」を批判しても、その瞬間、「正義の味方を批判する正義の味方」になってしまうだけだ。
とかくこの世はままならない。ただややこしさが増すだけのような。
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