ネットにおける有名無名の非対称性

CNET Japan 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか このエントリーを辿り、
日本社会がこれまで「誰が言ったか」ばかりを取りざたしてきたことへのアンチテーゼとして、「何を言ったか」というテーゼを今後は展開していくべきだと考えている。(毎日新聞連載「ネット君臨」で考える取材の可視化問題)
という章句を見つけた。ネットの匿名性についての論考で、↑自体には同意だけれども、ネットによる批判での情報の非対称性に対する認識が欠けているように見える。
これは、昨年秋にネット界隈で話題になった「死ぬ死ぬ詐欺」と言われる心臓病募金批判に対するものだけれど、火付け役らしいがんだるふ氏の「何を言ったか」が真っ当なものであっても、マスメディアに姿も実名も曝した批判される側との間には必ず非対称性が発生する。
無名(あるいは通名、匿名)が「何を言ったか」は、実名を曝した側には「何を言われたか」と同時に「誰が言われたか」としてはね返ってくる。しかし、無名側には「誰に言われた」としてまずはね返って来ない。
所謂炎上では、「何を言ったか」は火が点くきっかけに過ぎず実質的に「誰が言ったか」が炎上の原因になる。昨年の藪本雅子さんのブログが炎上も、同じパターンだ。
この二つのケースともマスメディア職員、またはマスメディア元社員かつ有名人なのだが、そうであることと「何を言ったか(やったか)」とは何の関係もない。実質的にはマスメディア批判を装ったネットを介した不特定多数vs.実名(有名)個人だ。不特定多数となると、もはや事実上、実名で参加しようが匿名で参加しようがほとんど無関係になる。実際、韓国では実名でしか書き込めないサイトでも悪口が飛び交っているらしい。むしろ、攻撃される実名側は、このような状況では絶対的弱者だ。不特定多数側の方がこの時点で圧倒的な無名のマスメディア側になってしまうのだ。
ゆえにこれはマスメディアvs.ネットでも、がんだるふ氏が通名で通しているかどうかの問題でもない。
佐々木氏は批判された人がNHK職員でなくても同じ批判が同じ程度の規模で起きたと本気で思っているのだろうか。佐々木氏の論考は、こうした構造的非対称性に無頓着なのだ。
「誰が言ったか」はマスメディア主導のもの、「何を言ったか」こそ、ネットメディアの新しい流れと言いたいのかも知れないが、ちょっとナイーブ過ぎる。「誰が言ったか」はマスメディアのみならず、ネットであろうが井戸端会議であろうが、どこだって重視されるのが世間というもので、そんなもの言論人ごときが変えられるものじゃないし、日本だけの特徴でもない。恐らく古代エジプト時代からそうだったろう。
池田信夫氏は、池内ひろ美氏脅迫事件を取り上げ、

大部分の「いやがらせ」には違法性はないので、規制では解決できない。こういう「匿名の暴力」は、基本的には文化の成熟度の問題だろうが、どうすれば歯止めがかけられるのだろうか。

と書かれているが、「匿名の暴力」というより本質的には古典的な「ネット版人民裁判」が実態ではなかろうか。それに恐らくいくら待っても「成熟」はないだろう。違法性がないのなら、違法性の範囲を時代状況に応じて拡大するしかないのではないか。
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