自衛隊は60年経て違憲が定着したらしい

テレビ朝日サンデープロジェクト5月6日放送「憲法誕生60年激論!3大紙社説責任者」 若宮啓文朝日新聞論説主幹曰く、自衛隊はこの60年で定着し、第九条をいじらなくてもいいのだそうだ。
ほかにも色々理屈を付けられていたようだが、この人の言うことポワーンとして意味不明で分からず失念した。
「定着」というのはどうも自衛隊は「あくまで今のままでは合憲」と認知されたと言いたかったようだ。
でも、これは完璧に間違っている。なぜなら、60年前も、今も自衛隊違憲なのだから。定着も何も、変わりようがない。九条は少しも変わっていないのだから、変わりようがないではないか。違憲でなくなるかどうかは、憲法の文言が変わって初めて変わるもので、なんとなく違憲でなくなりましたじゃ法治国家でないことを自ら認めたのと同じだ。
「定着」したものがあるとすれば、違憲状態への不感症だろう。不感症の慢性化が定着したのであって、日本は法治国家でなく、脱法行為がOKですという漫然とした空気が定着しただけなのだ。つまり、これ、表沙汰にさえならなければ何でもかまわないという、精神的腐敗が定着したことでもある。
せっかく不感症治療しようという動きが出てきたのに、相変わらずマスコミレベルでは、不感症のある種の居心地のよさに安住していたいという気分が支配しているようだ。あの朝日新聞の特大社説での「憲法は資産」という表現には「先祖代々の土地を失ってたまるか」的な、「憲法=終身雇用=永久不変」でありたいという哀切さが滲み出ているようで伝統美すら感じる。
社説にも歴史的蓄積があって、個人の意見など反映されないのだ。60年の歴史的経過があって、その「あの時は」「あの時は」の積み重ねで自縄自縛されているということだ。
そうなると、目の前の現実はどうでもよくなる。目の前の現実よりも、目の前の現実が変化することで朝日のいう「資産」がどう目減りするかしないかだけが問題なのだ。
基本的に歴史的資産運用が大事なのだから、目の前の現実レベルでは浮世離れするのは止むを得ない。本来、「集団的自衛権」だの「アメリカを狙ったミサイルを撃ち落せる権利があるか」どうかなど、戦争という非常事態で無意味なことは言うまでもない。秒単位で判断しなければならない基本動作を法で縛ることなど無意味なのだけれど、そんな現実的問題はどうでもいいのだ。←だって日本は60年平和でやってきたんだから戦時のことリアルに考える必要あります? 不謹慎ですよ――と言いたいのだ。
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