インランド・エンパイア
例えば左の写真⇒は主演のローラ・ダーンが室内に佇むシーンで、黄金色のカーテンで外光を遮っているだが、一見、暗鬱な曇り空の下の荒涼とした原野に佇んでいるようにも見える。内と外が反転してエッシャーの騙し絵のようだ。こういうシーンが結構ある。さすが製作期間が2年半にも及んだだけのことはある細密な曼荼羅絵のような映画だ。
「インランド・エンパイア」(Inland Empire)はカリフォルニア州にある実際の都市名でもあり、ディヴィッド・リンチ監督幼少時に刻まれた特段意味のない記憶に基づくものらしいが、意訳すれば「内奥の帝国」⇒「自閉の帝国」⇒「自己言及の帝国」ぐらいか。
「帝国」とはハリウッドそのもの、ハリウッド映画、俳優、ハリウッドの街、そして、映画館、その中で見ている観客まで含めて入れ子構造になっており、観客参加型映画ですらある。映画の世界が循環している。
この映画は基本的にネタバレ不可能。なにしろ、リンチ監督やダーンでさえ何を作っているのか、自分が何を演じているのか分からなかったと言っているのだから。実際、セレブ女優なのかハリウッドに屯する精神的トラウマを背負ったポーランド出身のコールガールなのか分からない役を演じるダーンは映画の中で「問題はどこが最初でどこが後なのかわからない」という台詞まで吐いている。つまり、ダーンは現実のダーンと映画「インランド・エンパイア」とその中の映画「暗い明日の空の上で」と、更に未完に終わった「47」らしき映画の主役の1人4役こなしていることになる。セカンドライフどころじゃない。マルチライフだよ、こりゃ。
通常、映画館で見るスクリーンは「映画的現実」だが、その「映画的現実」の中に更にスクリーンやテレビ画面があり、更にその中に・・・と続く。いつの間にか映画館に座っている観客は今見ているスクリーンが映し出す「現実」はどの次元のものか分からなくなり、眩暈を感じる。
当ブログでも「人格は何のコピペ?」で触れた ビデオフィードバック(Optical feedback)が作る眩暈のするような画像の物真似のようなことを一つの映画で試みられているということか。眩暈がするのも無理ないか。
手法的には、映画撮影はカット、カットで細切れに撮影されたフィルムを繋ぎ合わせて完成品を作るが、その繋ぎ合わせ方がメビウスの輪的で、文字通りどちらが表(現実)か裏(夢)なのかワケワカメになっている。映画冒頭と最後にレコード針付き蓄音機とともに出て来る「the longest radio play in history」はメビウスの輪のことだろう。夢から醒めたと思えばそれまた夢だったというアレだ。
ダーンが路上で死んで撮影終了、お疲れ様のダーンが映画館に入って、今まさに撮り終えた映画を見るシーンがあり、気が付けばなぜか観客はダーンと同じ立場に立たされている。そして、映画はその映画館のスクリーンの中で更に続く。
この終わりなき救いようのない迷宮から解放してくれたのは同じ路上生活者で光を当てて天国へ導こうとする黒人女性ではなく東洋人である裕木奈江なのかもしれない。実際、彼女が駅前留学英語丸出しで言及したある場所でエンドロールとなる。
裕木の長々とした台詞はリンチ監督自身が思いつきで書いたそうだが、いかにも硬い日本人的英会話法でその特徴をよくつかんでいて笑ってしまう。リンチの期待に見事に答えた裕木の喋りは喝采ものだ。ネイティブな人にはマントラのように聞こえるのかもしれない。
エンドロールがまた素敵だ。救いは天国ではなく生々しい現実にしかないのだというニーチェ的「神は死んだ」というか永劫回帰的な隠れたメッセージなのかも。
だが、救われる前に遁走した人もいた。私の隣席の人は1時間過ぎたあたりで席を立ち、2時間過ぎたあたりからどこいらから大きな鼾が聞こえてきた。迷惑がってはいけない。これらも映画の一部を構成しているのだから。
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