東浩紀氏は核保有論者なのかもしれない

東浩紀の渦状言論:信頼社会は不安社会よりいいのか? ある日本人がいて、彼は同じ日本人は信頼度が1だけど、アメリカ人は0.7ぐらいで、中国人ともなれば0.3がせいぜいだと考えているとする。信頼ベースの社会では、彼にとって日本人の総合安全値は10(7+3)だけど、アメリカ人は8(7×0.7+3)、そして中国人はわずか5(7×0.3+3)で、これじゃ中国人とはとても取引できないという話になる。他方で不安ベースの社会では、その数字はそれぞれ10(3+7)、9(3×0.7+7)、8(3×0.3+7)であって、まあ中国人と取引してもいいかという話になる。つまりは、セキュリティのインフラがしっかりしているから、信頼できない相手と取引してもそれほどリスクが増えないという計算になる。こういう見方をすれば、不安ベースの社会だって悪くないという話になる。それはある点では、信頼ベースの社会より「平等」だからです。
この考え方は、実際に米中関係で成立しているが、日中関係では成立せんでしょう。日本に核はないから
東さんの計算方法のベースは「社会設計が信頼(主観的な安全保障)と技術(客観的な安全保障)に頼る比率」をどう按配するかという仮の話だけれど、最初から相手を信頼しないから、信頼をベースにしない「技術(客観的な安全保障)」って、国対国同士であれば、具体的には軍事力以外に思いつかない。とりわけ相手が核保有国の中国なら、日本も核兵器持たないことには成立せんでしょう。それが東氏の言う「不安ベースの社会」の文字通りコア(核)な部分としか言いようがない。他にあるか?
いや、国対国じゃない、あくまで、たとえば「中国人対日本人」という個人対個人の問題だ、という補足も有り得るかもしれないけれど、この補足は「客観的」ではないだろう。「中国人」の概念も「日本人」の概念も国をベースに成立している。ましてや「安全保障」という言葉まで使われているのだから、国対国にまで敷衍せざるを得ない話だ。だから「アメリカの核の傘」だけじゃ心許無い。
もちろん、東氏は核保有論者だと非難しているわけではない。私自身、以前「日本は核武装する責任がある」なんてエントリーも書いたことのある核武装論者だから、むしろ、心強い同志を発見した気分だ。一見、
だからぼくは、日本に対する愛とかなんとか以前に、ナショナリズムの論理が嫌いなのです。
あたりを読むと、そうじゃないように見えはする。しかし、核兵器はやはり技術であって、ナショナリズムと無関係だ。こういう「信頼」のような境界はあっても境界が不確かな安全保障論より、技術論的安全保障論というのはかなり貴重だと思う。
ただ、どうも東氏はそこまでは想定して書いておられないようだ。その点、甘いと言えば甘いかもしれない。東氏の言う「平等」というのも、「力の均衡」と言い換えるべきなのだけれど、ベタに「平等」はないだろう。
もちろん、タイトル通り「かもしれない」ベースで書いている。もちろん、タイトル通り「かもしれない」ベースで書いている。ちなみに、核兵器の出現と密接に関係する「動物化」「最後の人間」も意識していない。「最後の人間」なんてナンセンスだと思っているし。
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