変質する世間と空気

「世間」の正体って何なのだろう? 池田信夫blog:「世間」の空気を恐れる古い脳を読んでいるうちにだんだん訳分からなくなってくる。
同blogの、
世間を恐れて身分を隠すイナゴ
匿名で群れる「部族社会」

をストレートに解釈すると、匿名は「世間」に属さず「部族社会」に属することになってしまう。ここらへん、ちょっと違和感がある。
「世間」あるいは「空気」というのは「実名で言っても差し障りがない意見、態度」で、逆に言えば、実名で言うと差し障りが出るものは排除されるということだろう。
本来の「部族社会」とは構成員が互いに顔を知り合った実名の世界であり、建前も本音も未分化な社会だろう。
一方、本来の「世間」も、本音と建前が混在したものだろう。
ところが、今では「世間」も変質し、空気を読んで予定調和的に行動する「本音を言わぬ実名の社会」に収斂して本音と建前が極端に二分化されてしまったのじゃないだろうか。それは何か正社員と非正社員との格差をイメージさせる。ここでは非正規の「本音」の部分は排除される。だから、本音が入っている所謂「サイレント・マジョリティ」とは意味合いが違う。
会社などのお詫び会見で「世間をお騒がせして申し訳ありません」が常套句になっているけれど、彼らが意識する「世間」とは匿名か実名かではなく、「本音を言わぬ実名社会」だろう。外国人がよく言う「顔の見えない日本人」だ。
会見での「世間」とは、「世間を恐れて本音を言わない」筈だったのが、本音がばれて「申し訳ない」ということだろう。建前は「世間」の側にある。
で、「匿名で群れる」のは、そういう「世間」が嫌なので本音を吐露するための装置という一面もある気がする。いや、実はそれは「本音」ですらなく、「古い脳」の単なるストレスの発露かもしれない。2ちゃんで匿名で罵倒している名無しさんには意外と社会的地位が高く高学歴の人が多いという話も聞いたことがある。
また、宮台真司氏は「KY」が突きつける日本的課題で、
現在の日本を覆っているのは一昔前の「空気」ではなく、共通前提の崩壊による
「空気に支配される」のを超えた「同調への強迫的命令」
と説いている。「脅迫的命令」ではなく、自分で勝手に自分に「空気嫁」を命令をしてしまうという強迫観念だろう。そして、
そこでは「空気を読めない奴」の意味が、世代間で名指す「ワケの分からない奴」から世代内で名指す「ノリに乗れない奴」に変わりました。「ワケの分からない奴」は異なるトライブ(種族)に分類されるだけですが、「ノリに乗れない奴」はイジメの対象になります。
という。
共通前提が崩壊してなお起きる擬似的な同じさという「空気」を、もはや部族社会と言うには無理があるように見える。それは偽装部族内での排除の論理と読める。
しかし、そうは言っても、実際のメジャーな「空気」は、実名によって「世間」を支配している要素が強い。どう考えてもメジャーな「空気」を作るのは実名法人マスメディアだし、作り出す「空気」は宮台氏風の「古い空気」だろう。それは「実名の予定調和な世間」が実体に近いように思える。実は「実名」とはほとんど「マスメディアで流通する意見」に近くなっていることが分かる。
匿名が何かを言って「空気」をつくるとしたら、それは以前の「空気」ではなく、宮台氏の言う「乗れるか、乗れないか」的「擬似空気」であり、この新旧の「空気」が入り乱れていて収拾がつかないのが今の日本を覆う「空気」の実体なのではないか。そう考えると、
池田信夫blogコメント欄の、
Unknown (Unknown) 2008-05-02 12:37:58
新しい脳は空気の惰性に巻き込まれて判断力を失っている様に思える、古い脳は恐れているのではなく判断力を失ったことの危険性に気づいているのだ。

に妙な説得力を感じる。もう信頼できる実名部族社会もなく、かといて信頼できる実名マスメディアも幻想だと分かり、その結果、匿名が身分を隠すためというよりも、底が抜けた脱社会的存在(これも宮台氏風用語で映画「ノーカントリー」「接吻」で表現されているという。)化した形で溢れている――そんな感じがする。
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