抗議するチベット人は統合失調症!?

内田樹の研究室:被害者の呪い 健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
何が可笑しいと言えば内田樹先生自身の想念が一点に固着して動かないことだろう。以前から内田先生の書くものはかなり妄想的とは思っていたけれど、はからずも自己証明されるとは。
病とはある状態に「居着く」ことである。
お名前通り、樹=いつき(本当の読みは「たつる」だけど)先生の面目躍如だ。
樹先生が何に居着いているか。それは、
以前、精神科医春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
という「こだわり・プライド・被害者意識」にだ。
この3つすべてを固着としているのは樹先生の固着だ。
もちろん、春日先生は、それらだけが統合失調症の前駆症状と言ったわけでもないし、その特徴を持つ人が全て統合失調症の前段階と言っているわけではない。ましてや文にある長野市聖火リレー関係者とは全く関係ない。樹先生が勝手にそれらの特徴の一点に固着して関係者に対してあらぬ妄想しただけなのだ。
チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。
これだけ読んで樹先生の居着きぶりが分かろうというものだ。樹先生はさも3者とも被害者意識に固着していると見ているように思えるが、嘘である。どっからどう見ても、被害者意識を持って抗議しているのは客観的、確率論的事実としてチベット人しかいない。樹先生もそう思っているはずだ。残りの2者は樹先生の居着きのなせるこじつけ=固着だ。そうでなければ、有り得ないことだ。「健全なゆらぎ」が想念にあれば、たちどころに見分けられることだ。樹先生は、社会で行われるあらゆる訴訟、抗議活動、デモについても同じように「固着」と見るのか。そうではないだろう。
荒っぽく言えば、樹先生は、抗議活動するチベット人は病気だと言っているに等しい。そう言いたい願望があるとしか思えない自分自身の被害者意識に居着いているのだ。
これが樹先生の居着き的妄想であることは言うまでもない。
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