山のあなた〜徳市の恋〜

tokuichi公式サイト石井克人監督、草なぎ剛、マイコ、堤真一広田亮平加瀬亮三浦友和清水宏監督・脚本の「按摩と女(1938年)」のリメイク。何と三角関係ならぬ四角関係のラブコメディ、のように見える裏に隠された見えないものがある。
いきなりのツッコミで恐縮だが、徳市(草なぎ剛)と福市(加瀬亮)、なんでまた長い山道を徒歩で温泉街に行くのだろう。学生たちと違ってハイキングしているわけでもないのに。目に沁みる新緑とはいえ、送迎馬車は2時間に1本出ているのだから盲目の身で歩くこともなかろうに。お客様専用馬車なんてこたあないだろう。ただただ「遭遇」の演出のためとしか思えない。
というのは表向きで、実は戦前からポピュラーだったカール・ブッセ「山のあなた(彼方)の空遠く幸住むと人のいふ」の通り、その思いを徒歩で表現しているものと思われる。伊豆の温泉宿で峠越えと言えば、「天城越え」である。石川さゆりの「天城越え」である。今年からイチローがシアトルのセーフコフィールドでバッターボックスに入るときにテーマ曲として流れる「天城越え」である。イチローはわざわざ石川さゆりのコンサートに出かけて本人に懇願したそうだ。今年のNHK紅白歌合戦石川さゆりの曲はこれで決まりだろう。徳市のイチはイチローのイチ。
というワケでこの伊豆山中の温泉宿そのものが見えるものと見えないものとの境界線、あるいは現実と夢の境目としての地平線=峠への関所として設定されていることが想像できる。やはり汗を流し、馬糞を避けて苦労して辿り着いてこそ意味がある。
ということは、徳市は、常に健常者でも見えない地平線の彼方を見ようとする者の象徴であり、かつ普通の市民たり得ない異端者の象徴でもある。俗物丸出しの学生たちを手荒にするのはそのためだろう(ちなみに「ご丁寧に揉ませていただきます」なんて自分でやるのに相手に対する敬語使ったのは痛い)。彼らは峠を易々と越えられるが、彼らこそ「峠の彼方=山のあなた」が見えない明き目暗なのだ。なぜ徳市がむきになって「目明き」の彼らに追い抜かれて悔しがるのか分かろうというものだ。
三沢美千穂(マイコ)も素性の知れぬ女であり、仇役の大村真太郎(堤真一)もその甥の研一(広田亮平)も素性の知れぬ男どもだ。実は、この温泉宿街で余所者でありながら素性の知れているのは、異端者である徳市ら按摩師たちだけなのだ。この微妙な物理的心理的空間構成が美しい新緑の自然の中で設定されている。
その中で美千穂が「幸」のシンボルとなって展開される恋愛劇未満。写真↑の橋上の場面でのそれぞれの「思い」はかなり複雑で、徳市は気付かない振りをして通り過ぎ、美千穂は徳市が気付かない振りをしているのを知りながら、そのことに気付いていない振りをする。さらに徳市はその美千穂の気付かない振りにも気付かない振りをして以下ループ状態である筈なのだ。「見えていない振り」は盲人の徳市だけの特権ではないのだ。
橋の上では、足音も杖を突く音もよく響き、移動が橋の幅で限定されているという点で、盲人と健常者の差が一番縮まる場所でもある。このためか、この橋上のシーンはたびたび出て来る。座頭市まがいの乱闘までするのだから。
徳市の鋭い勘が鈍るのは伝聞を手掛かりにせざるを得ないことだ。福市や研一から聞いた話が堆積して嫉妬と思い込みを募らせる妄念に囚われた徳市は頬が紅潮し、普段閉じている目が半分開く。それはまた見えないものを何としてでも見たい(不可能なことを不可能と知りながら可能にしたい)というやるせない見果てぬ夢への熱情でもある。彼は何と愛する人に「私の目の届かぬ遠い所に逃げて下さい」と言うのである。不可能と知るゆえに矛盾に満ちたギャグのような告白。そして、「幸」のシンボルのはずの美千穂もまた「不幸」を背負っていたとは。
全てが妄念だったことを知る時の徳市の気狂い。これは、「盲人」と言う言葉に何かを代入すれば、より普遍的な意味が出て来るだろう。単に「盲人の哀れな恋物語」だけで終わっていない。実は徳市とは、通俗に対立する「文学」そのものではあるまいか。
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