一番企業社会に似ているのは小学校の社会

理系兼業主婦日記:「勉強ができる」という蔑称

たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。
でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。
この非対称性は、なんなのだろう?

私の中学時代の音楽の先生曰く「勉強はみんなしているもんな。音楽や体育は人のやれないことしているから」。つまり、お勉強はその他一般で、いくらできても「一般」とひとくくりにされる。
日本では少なくとも受験学校ではない小中学校では学歴社会でもなんでもない。

なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?

特に小学校ではそうだが、学校内での支配関係は肉体的能力がものを言う。単純に喧嘩強いが基本。かけっこって喧嘩の強さのまあ基礎的能力。別に校内で喧嘩ばかっりやってなくてもそうだ。小学校で勉強できたって学校社会的に支配関係の道具にならないもんね。下手すれば便利屋にされるだけ。だからpollyannaさんは誤解していたのだと思う。

かけっこが速い子=素朴で子供らしい子、勉強ができる子=小賢しくてかわいげのない子、という印象がまかりとおっているように思えてならない。

てことないと思うよ。子供の世界も「力の論理」が支配している。
実は「力の論理」が支配してないのは大学以上なんじゃないかと。もちろん、教授>学生という支配関係のことじゃない。なぜかといえば、もはや学生対学生の支配関係は必要でなくなっている。先輩後輩の体育会系ではそれは持続しているのだけれど。
しかし、社会に出た途端、再び小学生に舞い戻ってしまってるんだね。それでもって、

日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。

ということになる。実は日本の企業は小学校の児童と似た社会なんだよ。肉体的能力の代わりに人事権、社内政治力学という力の源泉が優位になる。荒っぽく言えば、小学校での「先生に言いつけてやる」は企業では「上司に密告」、小学校の裏メールも企業では「噂の共有・派閥化」となる。そのため、学歴が高くなるほど「小学校」に戻る落差が大きくなる。
学歴などその力学を支配するポジションを得るための1つの資格に過ぎず、もっと求められる能力は学問、研究に要求される正反対のもの、不正直、出し抜き、ゴマスリ、ボスが何考えているかを察知する能力。こういうのって、博士号取った様な人から見ればくだらなく見えてしまうから、自然に不得手というより忌み嫌い、得意でなくなる。だから博士号組は企業から敬遠される。というか、博士号組は、実は企業にしろ、社会にしろ恐ろしくレベルが低いのだという現実に慣れていない。