市場原理主義と社会主義は双子の兄弟

la_causette:食糧輸入国に労働力ダンピングは難しい 昨今の新自由主義者は、往年の社会主義者以上に、大衆は自分たちのコントロールするとおりに動くはずだといううぬぼれが強いようですが、往年の社会主義者以上に、人間というものの把握が平板で、人間の行動予測が「ご都合主義」の域を出ていないようです。
こういうのって、結構素直に同意できる。実は社会主義者市場原理主義者に転向し易いのだと思う。そのココロは両者はコインの裏表のように似た者同士だから。
市場原理主義@wiki 市場原理主義新古典派経済学が理論化の便宜のためおいた前提や、その前提から導き出された命題を規範化し、現実の経済・社会ならびにそれを構成する個人をこの前提や命題の通りに作りかえることによって、新古典派経済学がエレガントな数理モデルで描き出している均衡の理想世界が実際の地上に君臨し、人々があまねく富裕を享受できる至福が訪れるとする思想的立場である。
最後辺りのフレーズなんて、世界革命論1@wikiの思想とそっくりだ。共通するのは、科学でも何でもなく、万能薬信仰だと思う。ある一つの観念なり、方法論が世界的に普及さえすれば、世界は矛盾から解放されて幸福になるという合理的ユートピア思想だ。平たく言えば、「これさえ身に付ければ、あなたは幸福になれる」「この薬さえ飲めば癌が治る」とかの類だ。あらら、だんだんトンデモぽくなってきた。基本的に両思想とも科学を纏った一神教的宗教の亜種だ。
そもそも巷言われている「規制」と「自由」というのは対立概念じゃないだろう。
規制なくして自由など有り得ない。
極論すれば、刑法が規制緩和されて万引きする自由が認められれば、万引きされた店主が不注意なだけで店主の自己責任だ、ということになる。けれど、その途端、市場は成り立たなくなる。怖くて店なんて開けてられんよ。事ほど左様に市場そのものが規制の産物として成り立っていることは常識を働かせれば簡単に了解できることだ。
市場原理主義(社会主義も)というのは、経済学を自然科学に近づけようという取り組みの一形態なのだろうけれど、彼らが想定する「自然」と「自由」はまるっきり違う。
自然界に自由など存在しないのだ。自然こそ自由というのは人間が勝手に勘違いしているだけで、あるがままに生成するのを「自由」と錯覚しているに過ぎない。実は自然科学というのは究極の規制を追究する学問だ。
自然はあるがままにしか生成できない完全無欠の不自由な状態だ。
なぜ不自由かと言えば、やり直し不可能な一回性の原則が支配する世界だから。
例えば自由落下(free fall)というのは、空気抵抗を例外にする場合はあっても、落下を食い止める落下傘も何もない状態で落ちる時に表現されるが、実際には重力という大きな規制にがんじがらめにされている状態で、ちっともfreeじゃない。このfreeとは日常的なレベルの比喩であって、科学的表現じゃないし、それが「合理的自然状態」でも何でもない。そしてfree fallの後に待ち受けるのは墜落(crash)と相場が決まっている。
そもそも、人間も、人間社会も、人間が作った制度も全て自然発生したものだ。もちろん規制も不自由な自然発生の賜物だ。
仮に最低賃金グローバル化に合わせて完全自由化、文字通りfree(「無料」という意味もある)、ただ働きもOKにすれば市場も社会も成り立たなくなる。文字通り奴隷制社会に舞い戻るだけだろう。
要するに、言葉のレベルで自由と自然が一緒くたにされて勘違いされているだけだ。背景には、恐らく経済学の自然科学に対する抜き難いコンプレックスがあると思う。
科学的社会主義と合理的効率主義的市場原理主義は双子の兄弟なんだ、実は。ご本尊が共産主義から効率至上主義に変わっただけで本質は何も変わっていない。
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