村上春樹氏「ネットの正論原理主義」は意味不明

村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」より引用。

一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

けれど、村上さんの「ネット空間にはびこる正論原理主義」って具体的言及がなく、これだけが一人歩きしているみたい。
文芸春秋を要約すると、村上春樹さんが憎むのは個人ではなく「システム」、特に取り上げられているのはオウム真理教事件。その次が自らの体験した1960年代の学生運動。でも、そこから何で一気に「ネット空間にはびこる正論原理主義」になるんだろう。読んでも結局分からない。単に個人的な「エルサレム行くな」体験じゃ話にならんだろう。あんなの大して盛り上がっていなかったし。
大体、村上さんはシステム、システムと言いながら、

僕らの世代の大多数は、運動に挫折したとたんわりにあっさり理想を捨て、生き方を転換して企業戦士として働き、日本経済の発展に力強く貢献した。そしてその結果、バブルをつくって弾けさせ、喪われた十年をもたらしました。そういう意味では日本の戦後史に対して、我々はいわば集合的な責任を負っているとも言える。

などと、自身をも含めた極めて特定された個人の集団に責任を負わせている。何ですか、この、
学生運動⇒挫折⇒企業戦士⇒バブル⇒喪われた十年
という陳腐なステレオタイプって。
言っておくけど、学生運動した人たちって、その世代の中でも圧倒的少数派だよ。本当に多数派だったら、日本は本当に引っくり返っていた。自分たちが時代を動かしたというエリート意識ぷんぷんだから、その後の日本も自分たちに責任があるなんてことになる。他の人たちが読んだらえらい迷惑だろう。変な責任感持たれても困るんですが。
で、「ネット空間にはびこる正論原理主義」って一体何なのよ。別にネットに限らず「正論原理主義」なんてどこにでもある有り触れたものだよ。酒場談義にもあるし、床屋談義にもあるし、井戸端会議にもある。わざわざ「はびこる」なんて言わなくても、腸内細菌、口内細菌みたいに普通にはびこっているよ。
結局、意味不明で、「システム」「システム」と言うこと自体、責任転嫁の香りすらする。別に責任感じてもらう必要もないのだけれど。ありもしない責任を責任転嫁しないでくれ、という気分はある。それは実は皮肉にもオウムの思考様式とそっくりな選民意識のにおいがするんだけれども。
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