「自由」も相場でしか決まらない

アゴラ・表現の自由を脅かす者、そして放棄する者−田部大輔

「性暴力系ゲームソフトの制作が禁止へ--審査機構が決定」である。おそらく多くの人にとってはとるに足らない話題であるのであろうが、私は、今回の一件は日本が持つ(無意識かもしれないが大事にしてきた)自由の危機ではないかと考えている。

でもねえ、その「自由」の定義も相場で決まるということ。実は、世の中に単純素朴な「自由」などない。「規制」と「規制」を規制する「規制」があるだけだ。実は著者が想定していると思われる「完全自由」な世界など最初から存在しない、それこそバーチャルな世界だ。実態は規制vs.規制の果てしない戦いがあるだけだ。だから「自由の危機」などと大上段に構えられても、「それはあなたの『自由』の相場観でしょ」と言うしかない。
アニメ・漫画・ゲームも「準児童ポルノ」として違法化訴えるキャンペーン MSとヤフーが賛同を槍玉に挙げられ、

紙の上に描かれている、あるいはモニターの向こうにしかいない幻想上の人物の人権を本気で守ろうとでもいうのか。

幻想や妄想の世界であっても、強姦や陵辱は許容できない一方、殺人は許せるというのであれば、そこにどんな論理や正義があるというのか。

と怪気炎はいいのだけれど、「幻想上の人物」は当然現実の人物と独立していない。
あえて言えば、殺人は許せる。殺人というのは相場的に言えば、ニュースでも一杯氾濫していて、規制しようにも規制自体が無意味なのだ。
ところが児童ポルノとなると、影響は殺人ほどポピュラーでない分、規制による効果がある。こういう類は、氾濫している殺人以上に情動的にショックを与え、想定される被害者(児童買春など)も、自らの意思と責任で金稼ぎしている大人の売春婦やポルノ女優とも違う。「仮想であっても間接的影響が大きく、保護するために禁止すべきだ」という“相場観”があって当然いいのだ。それは「自由の危機」とは少なくとも何の関係もないだろう。
Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ