目に見える危険と目に見えない危険

ストレステスト実施の問題、原発を減らすという議論とは違う=官房長官

[東京 8日 ロイター] 枝野幸男官房長官は8日午後の会見で、政府が原子力発電所へのストレステストなど、より安全性を高めるための対応を検討していることに関連して「原発を減らしたいから、という議論とは違う」と述べ、原発そのものを減らしていく議論につながるものではないとの認識を示した。

また、原発の稼働停止に伴うエネルギー供給の問題に関連して「エネルギー供給についても見通しを示す必要はあるが、原子力発電所の安全、安心が優先度の高い問題だ」と語った。

この談話聞くと、完全に目の前の短期の話と長期の話がゴチャマゼにされている。
短期的には「原発を減らしたいから、という議論」だ。このまま点検済み原発を再稼動しなければ、来年3月ごろには原発は一基も動かない事態になる。単純計算して電力の30%を消失する。枝野長官的にはそれが「安全」なのかもしれないが、社会はそんな単純なものではない。原発の稼動が一気になくなることで別の目に見えない危険が発生し、国民の命の安全が脅かされる。
原発の危険は分かりやすい。放射能がばらまかれ、その結果ガンのリスクが一生で高まる可能性がある。こういう想像力のルートが直線的なのは分かりやすい。そして、こうした分かりやすい危険が大規模に顕現すると、人々は圧倒されて他の危険がますます見えにくくなるか、無視する。
一方の「原発のない危険」は分かりにくい、見えにくい。迫り来る「熱中症リスク」はまだ見えやすい危険だ。
もっと見えにくい危険はたとえ話で説明するしかない。
仮に100人の被験者に長期合宿してもらい、水分も食事量も30%減らした生活をしてもらう。中にはダイエットになってかえって健康になる人もいるだろう。しかし、同時に急な食生活の変化で体調を崩す人もいるだろう。血液中の水分が減って脳卒中になる人もいるかもしれないし、貧血を起こしてダウンする人もいるだろう。いったい何人犠牲者が出るか、やってみなければわからない。
良し悪しはともかく今の日本は電力を湯水のように使うことになれてきた。それが急に30%減となると、必ず思わぬところで犠牲者が現れる。ましてや電力需要のピーク時にダイエットすれば、熱中症のような分かりやすい危険以外に想定されないところで意外な犠牲者が出ることだろう。そうした犠牲者に対してはマスメディアの感度が鈍いから顧みられないだろう。
単純に工業生産力が落ちるとか直線的な原因だけで説明できるほど今の社会は単純でない。複雑に絡み合っているから急な変化をすると、想定外の危険は目に見えないまま起きる。枝野長官も少しは社会の複雑性について想像したことあるのだろうか。
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