「特例」「特別」が「普通」「一般」より大きくなった国

文字通り「普通」の感覚で言えば、「特例」とは特別な例外であり、「特別」自体が「例外」という意味を含意している。
しかし、見渡せば、こんな「普通」の解釈は日本では、すっかり形骸化されている。「特例」「特別」が大手を振ってまかり通り、「普通」「一般」は隅っこで小さくなっている。
最も大きなのは国の会計で、特別会計の方がはるかに一般会計より大きくなっている。国の会計ばかりか一般サラリーマンの給与明細だって、所謂「本給」とか「本俸」と言われる基本給よりも数々の何とか手当を合算した“特別手当”の方が大きい筈だ。
法律だって「特例法」「特別措置法」というものがやたらあり、それが本当に「特例」「特別」に終わって廃止されたものは特別に少なく、大抵は、既得権益化して万年特例法、万年特措法というのが「普通」もしくは「一般」だ。典型的なのは毎年法案が出される赤字国債特例法だろう。
ちょっと話はずれるかもしれないが、JRの「特急」(特別急行)と「普通列車」の関係にもあてはまりそう。まだ新幹線が発達する前の国鉄の時代は「特急」は文字通り例外的な特別の列車だった。ところが、今、「急行」という“中間層”がほとんど絶滅危惧種的に少なくなり、全て特急化されてしまった。
大都市圏だとそうでもないが、地方のJR幹線だと、運行本数はともかく、運行距離では「特急」が圧倒的に多いだろう。「普通」は特急列車の合間に短距離列車を細々と運行しているに等しい。新幹線だって同じように在来線の「特急」に相当する「のぞみ」がなし崩し的に急行に相当する「ひかり」を吸収合併し、もはや「ひかり」は絶滅危惧種、合間に「普通」に相当する「こだま」が走っている。「のぞみ」を増やすことで実質的に値上げされている。
一体、列車から法律、予算、給与までなぜ「例外」なく同じような軌跡を辿って今日に至るのか。一度決まると、既得権が何重にもクジラの耳垢のように積み重ねられ、慣らされ、もはや「特例」や「特別」が例外でないという普通の感覚すら麻痺させられ、全国的に「特例」にあぐらをかくのが「普通」になってしまったということしか考えられない。
しかし、こんな「異常」な「普通」の状態形容矛盾であり、ある時、突然「特例」や「特別」が厚くなった垢が剥げ落ちるように崩壊するのかもしれない。
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