世襲政治家の効率性ってそりゃ効率的だろさ

床屋政談 世襲議員をどんな理由で規制するのか?

政治資源のストックを世襲財産の継承という形でより蓄積することが、より高い政治サービス*3の提供を実現することになる、と一応考えられる。このとき世襲の規制はあまり好ましくない。
もちろん現実とモデルは同じではない。例えば観察眼をこらせば、世襲議員の中でもだめな人は多いかもしれない。あるいは上にも書いたが、政治資源の効率性という観点だけではなく、社会的な平等という価値観からみて、世代をまたいで政治資源が特定の集団(政治家ファミリーなど)に継承されることが、政治格差を生み出し、やがて社会的な不安や不満につながる、という見方もできる。
ただそのときでも政治的遺産の世襲そのものは、政治サービスの効率的な実現に役立つ面が意外と大きいということを忘れてしまうと、闇雲な世襲の禁止(完全に選挙区の制限をすること)はむしろ社会的なマイナスのほうが大きくなる可能性があるということである。

ここで言われている「政治サービス」の効率性というのは、その世襲政治家内の支持グループ内での「政治サービス」であることは言うまでもないだろう。その意味で言えば世襲政治家は効率的な遺産継承システムに決まっている。だからこそいまや国会議員の6割くらいが世襲議員になっている。効率性がないのならこんなに世襲議員が跋扈するはずもない。この[床屋政談]は文字通り床屋政談で、要するにトートロジーなのだ。
この効率性を追究すれば幕藩体制に戻るのが一番効率が良い。4年または6年に1度、選挙するのも効率が悪い。当該政治家が死ぬか何らかの形で政治生命を失うかするまで選挙しない方がいいということになる。
そもそも政治はこの種の効率性などに価値を認めていない。むしろ、真逆の非効率を求めている。何かの改革をするにもこうした効率性とは対立するものだ。その結果、世襲による政治資源だの政治サービスは生産性の低いものになってしまう。世襲そのものが生産性の低さを前提にしか成り立たない。政治の場合、効率が高ければ高いほど、逆に生産性が低くなる。
そこにあるのは知性の否定、学歴の否定であることは以前、「超世襲同士の総裁選」にも書いたが、最近の政治状況は、少なくとも「政治サービス」の効率性などとのほほんとした床屋政談に現を抜かしていられる状況からはほど遠いことは間違いない。
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