必要経費としての消費

池田信夫blog:マルクスとソーシャルメディアより。

マルクスは社会的知性が科学技術による生産の条件だとものべている。そしておもしろいことに、こうした社会的知性は生産だけではなく消費によっても生まれると説いている。
たとえばあなたが会社から帰ってきてブログを書くとき、それはあなたにとっては遊びだが、読者にとっては意味のあるサービスになりうる。ここでは労働=受苦と消費=快楽という二分法はなくなり、労働が生活の手段ではなく目的になるという『ドイツ・イデオロギー』の夢想が、ある意味で実現するわけだ。
だから狭義のソーシャルメディアが「産業」として従来のメディアより小さくなるとしても、嘆くにはあたらない。それはサービスを消費する側だけではなく、それを生産する側にも喜びを与え、一般的知性をさらに発展させ、成長のエンジンとなるからだ。そしてマルクスも指摘したように、科学の大部分はこのような娯楽として生まれ、結果として産業を発達させたのである。

これとは逆に娯楽・消費の手段化、労働=受苦という現象も同時に存在する。
たとえば女性が会社に出勤する時、メークをし、ビジネススーツをばしっと決めて出かける。働く女性にとって化粧やファッションは娯楽のための消費というより、仕事のための手段の要素が大きい。下手に流行遅れのメイクや衣装で出かければ、それだけでビジネスウーマンとして減点ものなので、限りなく必要経費だ。会社の社長さんだって、本当は経営が火の車だからといって、安物のスーツに替えたり、高級乗用車から大衆車に乗り換えたら、途端に見透かされてしまいそうで無理して高級スーツを着続け、高級乗用車を乗り続けることになるだろう。
他人にとって優雅な消費に見えても、その人にとっては受苦以外の何物でもない、ということはままある。エコカーだって環境に優しいが目的というより、買い換えるのなら、今時エコカーじゃないとバツが悪いとか、今時こんなもの持っていたらという世間体本位の“今時消費”の比率が近年とみに大きくなっている気がする。情報主導の消費が進んだからだろう。
デフレと言っても、よく考えてみると、安くなっているのは、大体一人で入る牛丼チェーンとか個食用の弁当などなど世間の目をあまり気にしなくてすむシチュエーションの消費に限られている気がする。
偽ブランドが売れるのも、騙されているというより、“必要経費消費”をなるべく抑えるために偽物と分かって買っている側面が大きいのではないか。
日本経済は2010年でGDPが中国に追い抜かれたらしいけれど、それでも一人当たりでは中国の10倍もある。本来貧困感というのは有り得ないほど豊かなはずだが、こうした“必要経費消費”を差し引くと、純粋娯楽消費(そんな概念成立し得るのか定かでないが)は意外に少なく、窮乏化しているのかもしれない。
最近やっとすっぴん美人が評価され始めてきたようだが、あまりに“必要経費消費”が大きくなり過ぎて耐え切れず、反動が出始めているようだ。もし、万国の女性が団結して「化粧もファッションもやーめた」と一斉に“ストライキ”を起こせば、成長のエンジンを止めることになるのだろうか。
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